昭和52年09月04日 朝の御理解
御理解 第四十五節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはすずぞ。」
昨日午後の奉仕をさせて頂いてある時でしたが、福岡から参って見えます若い婦人の方です。月に一、二回位参って来ます。非常に熱心におかげの泉を読み、合楽便りを楽しみに、何回も何回も繰り返し読みますとこう言う。合楽理念なんかはもう何回読んだか分かりません。もう大変合楽理念のことなら詳しいんです。ですからいろんな問題、いろんな難儀な問題でも、合楽理念を読んでいると、もう自ずと解決すると言う訳です。所が先生一つどうしても、そのおかげの頂けん事がありますと。昨日言われるんです。
実は尾籠な話ですけど、先生二十日間秘結をしてから便所に行かない。もう食事は沢山頂ける、美味しい。それでおかげの泉をいつも読みますから、熊谷さんの話やらを聞いてしっかり便所も拝んで行きますけれどもね、私はこれは大便の時だけじゃいかんと思うて小便の時も拝んで行きます。大便の時は勿論一生懸命御祈念して行きます。そしてまた出る時もしっかりお礼を申し上げて拝みますけれども、こればっかりはおかげを頂かれませんとこう言うのです。そげな筈はない。
外の事は合楽理念をもってすれば何でもおかげを頂く。便所を拝めば、例えば痔や秘結やらという下の病気なんかは、確かに皆おかげを受けておる事実がある事を聞きもし、それをそう思うんだけど、私の場合だけは、どうしてもおかげが受けられんとこう言うのです。だからその事をお取次さして頂きよりましたら、お釈迦様のこう天と地をこう指した仏像がありましょうが、と言う様にその方が天と地を指しとるかの様にみえるけど、天の方だけはこうして指差しとる。
片一方のこちらの手では腹を一生懸命、揉みよんなさるところを頂くんです。天地じゃなくて天を指して、腹の痛い所を一生懸命揉んでおる。それで私は思いました。ああ本当にこれは御理解を頂かなきゃ、本当分からんなと思います。いうならば天は限りなく美しい。与えて与えて止まない美しい心だ。しかも無条件だと。もう十分これは知ってあるですね。合楽理念を読み、おかげの泉を繰り返し繰り返し読んでおると言うのですから、所が地の方へ向ける所の指は、自分の難儀な所ですね。
所謂お腹が揉んどりゃ便所に行きだんせんじゃろうかと思うてじゃろう。一生懸命揉みほぐしよんなさる所やった。だから例えばそういう、これは一つの難儀な事でしょうけれども、その事は神様にお任せして、その事自体を合掌して受けるというのが地の心です。地はもう受けて受けて止まない心。よし例えば二十日一ケ月いかんでお腹が破裂するような事があっても、その時はその時で、それを頂いていくという大地の心、大地の信心。私は丁度その時に、今月のおかげの泉を読ませて頂いとりました。
今度は一日の日に出来上がりませんでしたから、二日の日にまいりました。これは皆さんどんなでしょうか。今度は随分厚いのですけれども、私はあれが参りまして、もう二回繰り返し読みます。その前に校正をする時にも私は必ず読ませて頂くんです。それがねもう読んでおってから、お取次させて頂くのが面倒臭い位に、読みかけたら読み終わらにゃおれん様な内容に、もういつもの事ですけれどもそう思うです。皆さんやっぱり頂くということは、そう言う事だと思うです。
扉にも書いてあります様に、おかげの泉は少なくとも十回は読んで下さいと書いてある。昨日のそのお参りをして来た方は、それこそ繰り返し読んでもおるし、詳しいし、とにかく合楽理念なんかというものは、もう毎日参って来よる者よりおそらくもう説明しなさるのじゃないだろうかという位に、いうならばマスターしておられるです。そして又おかげを頂いておられるです。所がこの事だけに限っては、どうしても尾籠なお届ですけれども、これは親先生にお取次頂かにゃでけんと思うて。
今日は参って来たとこういうのです。丁度私はそのおかげの泉を読ませて頂いておったら、本当の事が分かった。いわゆる天の心が真なら、地の心天真地心という。地の心というのが心という字。だから天の心と地の心と合わせて真心となる。この所の事が腹入りしたらおかげは即刻だ。めくらはその場で目が開くだろう。ちんばはその場で立ち上がる程しのおかげが受けられると言う所を丁度読んでおったんです。
ですからね、今私はあなたのことをお願いさせて頂きよったら、天の方は指しとんなさるけれども、地の方を指していない。いわゆる天上天下唯我独尊というですかね。そのお釈迦様が天地を指差しておられる。いわゆる天上天下唯我独尊の、あれは表現だと言う事ですけれども、天の方は指しとるけれども、地の方は指さずに只自分の難儀な所へ手をやっておると言う事が、それが合楽理念にもとるのじゃないでしょうか。合楽理念というのは、もう受けて受けて受け抜く心が説いてありましょうが。
もうそしたらハーッ本当そこが気が付きませんでしたと言うて、真から言っておられました。そこがおかげ頂き分かったらです、もう本当におかげ頂きますよ、即決のおかげになりますよと言うて、私は即決のおかげを頂く所をその方に読んで聞かせた。それからすぐ下がってから御祈念しよんなさいました。そしたらえらい慌ててから御祈念を、まあもうちっとゆっくり拝めやよかとこにと思う位、けそけそとして帰られますから、どうした事だろうかと思いよった所が、あの暫くして又ここに見えましてね。
実は御祈念中にお腹が痛くなりましたと言う。それだからこういう時が揉んじゃならん、お願いせにゃならんと思うけれども、たまらんごと便所に行きたくなった。それでやらせて頂きましたら、親先生それこそ尾籠なお話ですけど、あそこ一杯行くごと沢山入った。ああもう私は本当に即決のおかげちゃこう言う事だと思いましたね。皆さんが持っておられる様々の難儀ということだけに焦点を置いておることは、丁度お腹をさすっておる様なもんです。
だからその難儀の真相というものはです、やはり肉眼をおいて心眼を開かなければ実は分からんのです。それが力を受ける元なんです。それがお徳を受ける元なんです。今日は「世に三宝様踏むな」、三宝様と言う事は、ここでは穀物の意と注がしてございますね。けれども、私はいつも三宝様というのは、これは人間の命の上にはお米が一番大切ですけれども、人間の幸せになって行くと言う事のための一番大切なもの、人間がお徳を受けて行くために、力を受けて行くためには一番大切なもの。
人間が幸せになるための一番大切なものをないがしろにしたり、踏み付けたり、それを邪魔者の様にしたりするのではなくて、そのこと自体を合掌して受けていくと言う事。いわゆる成行きを尊ぶとか、大切にすると言う事は、そう言う事なんです。それを疎かにするから眼がつぶれるのだ。所謂いつまで経っても肉眼を置いて心眼を開く事が出来ないのだ。そういう頂き方が繰り返しされている内にです。
いわゆる難儀は難儀ではなくて、神愛と分からせて頂く様になり、その神愛をまた合掌して受ける事が本当だと言った様な事が分かってくるわけです。眼がボチボチ開け出してきた。そして肉眼を置いて心眼を開かせて頂いたらどう言う事になるかと言うと、今まで歯がゆい事であると思いよった事が、お礼ば申し上げんならん事であり、もう自分だけが馬鹿を見ると思っておった事が実はそれこそ三宝様であったと言う事が分かる。御神意が分かる。例えば自分をいじめる人がある。
例えば千代萩で、いうならば八汐ですね。鏡山でいうなら岩藤である。もうこれは日本の悪か女の代表の様に、もうあん奴は、八汐のごたる奴と言うでしょうが、もうあん奴ばかりは岩藤のごたる顔が岩藤のごたる顔しちゃる。そりゃ腹かいた時は誰でん岩藤やら八汐のごたる顔になるですね。目がつり上がってね、顔ちゃ真っ青になって、本当に鬼気迫る様な顔になる。本当腹が立った時はね、だから私共の周辺には、必ずそういうなのがおるです。八汐じゃろうか職場なんかには必ずおるです。
それにやっぱりいじめ抜かれていじめ殺されるとがおるですね。けれども心を開かせて頂いたらです、実はそれは神様のまた別なお姿であったと言う事が分かるです。岩藤のおかげで、いわばお初は二代目尾上を継ぐ様な、女中の身からね、様なおかげを頂いたじゃないですかね。それこそ岩藤様様ですよ。八汐だってそうですよ。八汐がいじめ抜いたその正岡が、それこそ末代までも名が残るという程しの、いうなら忠義貞節の女の鑑の様に言われたのも、あれは八汐という女が居ったおかげなんです。
してみると八汐は神様であったと言う事が分かるでしょうが皆さん。それをね肉眼を置いて心眼を開かせて頂くと、それが分かってくるですから、それを拝まずには居れなくなって来る所に、いうならば自他共に助かる道が開けてくる。私はこの四十五節はここの所が一番大切だと思うんです。「三宝様を踏むな、三宝様踏むと眼が潰れる」。確かに力を与えて下さろうとして神様の働きを下ってあるものをです。サア例えば病気でいうなら、サア医者じゃ薬じゃと言うて持っていくなら、それじゃ力が受けられん。
難儀な問題が、サアあの人に頼り、この人に頼むと言いよったら、もうそれはおかげは頂いても、力にはならん。肉眼を置いて心眼を開くと言う事の手立てにはならないと言う事でございます。ですからどうでも肉眼を置いて心眼を開かせて頂く所にです、今までそれこそ情けない涙の出る風に思いよったことが、それが有難涙に変わってくるという程しのおかげが受けられるのが、三宝様踏むなと言う事だと私は思いますね。
もう昨日その方が、それこそ二十日も行かなかったのに一遍にやらせて頂いた。お腹がくじくじする。だから御祈念半ばで立たせて貰って、所謂大便のそれこそおかげを頂いたわけ。もう本当に御教えの素晴らしい事には恐れ入ります。これはこの事をもう一つ合楽理念の中に書き加えておかなければならないと言う様な意味の事を言うて帰られましたね。本当に分かる所が分かる様になると即決のおかげが受けられると言う事。
昨夜おそうここに出て参りましてから、必ず修行生の先生方が御用日誌を毎日書いておりますから、これを読ませて貰います。昨日は佐田先生が受け持って所感のところに、こういう様なことを書いとります。「金光教は信奉者数が五十万を割った。現在公称されたのは四十八万人ということになつた。教祖の亡くなられた当時が十五万、教団独立の時が五十万、明治の終りが百万、昭和十年頃三百万と言われた。本部のお下がりも去年初めて実質的に減少したとのこと。
教祖五十年祭の時が金光教の最盛期なら、六年後の百年祭以後が金光教の危機と言われる。この時期に親先生が出現された。キリスト教にはペテロやパロウ、仏教には弟子の<りゅうき>、その他真宗の親鸞には蓮如が出て発展した。金光教には親先生が出られて、本当の人の助かる宗教と成り得るその親先生に御神縁を頂いた私どもは千載一遇、選ばれた氏子の自覚に立って、親先生の手足にならせて頂く稽古に専念しなければならない。」と書いとります。
これは何で調べたのか、見たのか知りませんけども、現在の金光教はそうなんです。そこに合楽が出現したということは私もそう思います。もう本当にこれはどうでも、合楽理念がその中に入って広がっていくおかげを頂いて、助かる理念合楽でまたはビリグイ辺りで、どんどんおかげを頂いている様子が教団全体に広がったら、もう瞬く間に百万は二百万になることでしょう。ここに佐田先生が書いとります様に、そういう例えば合楽に御縁を頂いたと言う事は、もう選民の中の選民だ。
氏子の中の氏子だとの自覚を持ってです、親先生の手にも足にもならせて頂こうと言う様な意欲的なことを書いとる所感です。本当になら教団が今段々衰微の一路を辿っておるのは、どういうことかというとです。この三宝様を疎かにするからなんです。本当に大事なことを全部おろそかにして、ただ頭でっかちになっていく傾向があるから生きた働きというものが無くなってきた。
生きた働きが、いうならば本当いうたら金光教には奇跡はない。信心しておかげがあるのが不思議とはいうまじきものと言うけれども、信心しておかげを受けるという不思議がなくなった。それが当たり前の様になってきた。そして不思議なおかげを頂くと、それは何か間違ったもののようにいう様な傾向すらがあるという事実がね。いうなら金光教を愈々下り坂にしてしまっておるのだという気がするんです。そういう意味合いで合楽の場合は、それこそ日勝り月勝りにおかげを頂いておる。
それは私を真にして、合楽理念の行者が段々増えていって、いうならば、いうなら大切なもの、いわゆる三宝様を疎かにしない、生き方を身に付けて行きながら、精進しておるところにです。いうなら日勝り月勝りのおかげを頂いておるんだと思います。皆さんもそのいうなら体験者ともならせて貰い、そしてそういう例えば、選民の中の選民と言った様な自覚に立ってのです、信心がいよいよ進められなきゃならないと思いますね。
どうぞ。